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グユク(Güyük、20px、 1206年 - 1248年4月)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。 第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている〔北川、杉山『大モンゴルの時代』108,110頁〕。 == 生涯 == === 即位前まで === 1206年、初代ハーンであるチンギス・ハーンの三男オゴデイの長男として生まれる。 父オゴデイが即位前に領有していたバルハシ湖近傍のエミル・コボク地方を領地として与えられた〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、92頁〕。1233年、大真国の蒲鮮万奴を討つ功績を挙げた〔村上「定宗(蒙古)」『アジア歴史事典』6巻、412頁〕。 1235年初春、オゴデイはカラコルムを首都と定め、併せてこの時召集されたクリルタイで、ジョチ家の当主バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍、三弟クチュ、次弟コデンらを総司令官とする南宋遠征軍、さらには高麗へも軍を派遣することが決定し、グユクはオゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、104-105,150頁〕。 バトゥに次するトルイ家の長男モンケやチャガタイ家のブリなどとともに、グユクはルーシ遠征で活躍した。1239年にはモンケとともにアラン人との戦闘で戦果を挙げる〔。しかし『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でブリがジョチ家の王子たちと口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調したと伝えられる〔『元朝秘史』下巻(小澤重男訳, 岩波文庫, 岩波書店, 1997年8月)、224-226頁〕。 『元朝秘史』によると、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父オゴデイは激怒し、グユクとブリは本国への召還を命じられた〔。『集史』ではグユクに伴ってモンケもモンゴルへ帰還したという〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、365頁〕。しかしオゴデイは1241年、グユクが本国に帰還する途上で病没してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グユク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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